何十回目の正直

「いらっしゃいませー。ご注文はお決まりですか?」

 何千回と繰り返されたフレーズを口にして、目の前の客の注文を聞く。スーツ姿のサラリーマンやOLがならぶ列を横目で見ながら、今日も結構忙しいな、と私は心の中でため息をついていた。

 神室町ヒルズにオープンしたコーヒーショップで働き始めて早半年。元々同じ会社の別店舗で働いていたが、オープンスタッフとして社員が一人欲しいと言われ新店舗に移ることになった。
 まだ神室町付近にはチェーン展開していないようで知名度はまだまだ低いものの、たくさんのオフィスがヒルズ内にあるおかげで、同じビルで働いてる人達がコーヒーを買いに来てくれる。そのため売り上げは上々、少しずつ口コミも増えているらしい。

 特に朝の時間帯は出勤前の客が多く、いかに早くたくさんの売り上げを出せるかがポイントだ。ヒルズ内にあるオフィスのほとんどが9時から始まるせいか、9時前はいつも休む暇なく忙しい。

 先ほどの客の注文を終え次の客に移ると、数人だった列が6、7人の長い列になっている。よし、と気合いを入れてスピード重視で目の前の仕事に取り掛かった。

 今日も何とかピークの時刻を無事に終えて片付けや店内のチェックをすると、気づけば時刻は9時半ほどを回っていた。

「紗英さん、休憩入りますね」
「あ、うん。亮くんが終わったら私も入れ替わりで休憩入るね」

 バイトの亮くんが私に声をかけて控え室に入る。朝6時からオープンしているので、大体朝のピークが過ぎた9時半頃にやっと休憩が入る。

 小さい店なので基本朝のシフトは店長と私、バイトの亮くんの3人で回している。私と亮くんでレジとドリンクを担当し、店長がそれ以外の細々とした雑務を担っている。亮くんが休憩に入る時は一人でレジとドリンクをこなさなければならないが、この時間帯はほとんど客が来ないのでさほど問題ではない。

 この男一人を除いては。

「おはよう紗英ちゃん。今日もごっつ可愛いなぁ」

 パイソン柄のジャケットに、蛇のモチーフの入った眼帯を左目につけた長身の男性がレジの前に立つ。彼のテクノカットの髪型はいつもきっちりと整えられていて、彼の几帳面さが窺える。

 彼はオープン当時からの客で、いつも朝のピークを過ぎた時間にコーヒーを買いに来る。何がきっかけだったのかはわからないが何故か気に入られてしまったようで、来るたびに可愛いだの笑顔が素敵だの口説かれるようになってしまったのだ。

 一方的に話をされるうちに知ったのは、彼が同じビルの57階に事務所を構えているという事だった。後で店長に聞いてみるとその階には真島建設という会社が入っているらしく、彼はどうやらその建設会社の社長らしい。
 ただ、彼がただの社長でないのは胸元から見える刺青のせいで明らかで、店長に気をつけるようにと言われたことがあった。

 明らかに普通とは言い難い人に目を付けられてしまったが、常客を邪険にすることはできない。なるべく必要最低限の笑顔と失礼にならない、でも愛想は振り撒かないギリギリの態度でいつも接客をしている。

「いらっしゃいませー。ご注文はお決まりですか?」

 彼の可愛いという言葉に反応することなく、いつもの定型文を口にする。

「ホットコーヒー頼むわ」
「サイズはいかがなさいますか?」
「スモールで」
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「おう」
「お会計は350円でございます」

 目の前にトレーがあるのにわざわざ千円札を私に渡してくる。その千円札を受け取ってお釣りとレシートをトレーに乗せると、彼はレシートをレジ横のレシート入れに、小銭を募金箱の中に入れた。これもいつもの流れだ。

 ほぼ毎日行われるやりとりに今日も既視感を覚えつつ、オーダーされたコーヒーを準備する。もう出来上がっているコーヒーをカップに入れるだけの簡単な作業だ。
 1分もしないうちにできたコーヒーをカウンターに置いて、彼にそれを告げる。

「お待たせいたしました。ホットコーヒーです」
「おおきに」

 彼はドリンクを受け取ると、ニコニコとしたままそこを動かない。

「……他に何か?」
「いやぁ別に。紗英ちゃん見てんねん」

 また始まった。

 彼はいつもこうしてドリンクを受け取った後、次の客がくるまでカウンターから動かない。運が悪い時は亮くんが休憩から戻ってくるまでこれが続く。

「はぁ、またですか真島さん。私仕事中なんですけど」
「ええやん、他に客もおらへんし」
「いや、他にも仕事あるんですけど……」
「別に俺のことは気にせんと仕事やったらええわ。俺はここで見とるで」
「やりづらいですって……」

 とは言っても、すでに店内のチェックも片付けもしてしまったので特にすることがないのも事実だ。それを知ってか知らずかこんなことを言うので、突っ立っているわけにもいかない。
 とりあえず横にあったコーヒーマシンを拭きながら彼との会話を続ける。

「真島さんはお仕事戻らなくていいんですか」
「俺は別にええねん。部下がきーっちり仕事してくれとるからのぉ」
「そんなこと言って、昨日も西田さんがうちに来ましたよ。『親父見ませんでした?』って」
「あぁ? あいつそないなことしとったんかいな」
「真島さんがどっか行っちゃうからでしょ。西田さんホント大変そう」

 真島さんがここに通っているのは彼の社員にも知られているようで、そのうちの一人の西田さんはよく彼の居場所を聞きにうちを訪ねてくる。かなりの頻度でやってくるので、そういうことは日常茶飯事なのだろう。

「なんや紗英ちゃん、俺には素っ気ないのに西田には優しいんやのぉ」
「それとこれとは関係ないですよ」
「なら俺にも優しくしてや」
「優しくしてるじゃないですか、お客様として」
「客としてじゃなくてプライベートでや」
「別にプライベートで真島さんと会うことないですし」
「ほんなら俺とデートしようや」

 何十回と聞いたフレーズに呆れてため息が出る。

「私言いましたよね? 彼氏いるって」
「別に彼氏おっても俺は気にせんで」
「私が気にするんです」
「でも最近上手くいってへんのやろ?」

 痛いところをつかれて思わず言葉に詰まる。少し前にうっかり口を滑らせて、彼氏と上手くいってないことを言ってしまったのだ。話すつもりはなかったけれど、彼の話術にまんまと嵌められてしまった。

「まぁ……そうですけど」
「なんや、まだ別れ話切り出してへんのかいな?」
「……あんまり連絡返ってこなくて」
「そんな男さっさと捨てたらええやんけ。こぉへん連絡待っとっても時間の無駄やろ」

 ぐうの音も出ないほどの正論を告げられて下を向く。

 確かに最近はメールをしても碌に返事も帰ってこないし、電話をしても忙しいからとすぐに切られる。まだ心の中にある恋人への好意のせいで微かな期待をしてしまっているが、側から見ればこの関係はもう終わりに近いのだろう。

 なんと返事をして良いのかわからず、一部分だけピカピカに磨かれているコーヒーマシンを見つめていると、レジのほうからチンッとベルが鳴った。新しい客が来たようだ。

「あっすみません真島さん、今日はこれで」
「おう。ほなまたな」

 彼に軽くお辞儀をすると駆け足でレジへと向かう。注文を取り終えると、彼はもういなくなっていた。

 お疲れ様でした、と店長に声をかけて職場を後にする。
 駅へと続く道をトボトボ歩きながら、今朝真島さんに言われたことを考えていた。

(来ない連絡を待ってても時間の無駄、か……)

 携帯のメッセージアプリを開き、彼氏とのメッセージ履歴を見る。私から送ったメッセージには返事がなく、ここ2週間ほどの通話記録も全て私からだ。最後に彼から届いたメッセージはいつなのだろう、と履歴を遮ってみるが、見つかるよりも前に自分の指が痛くなりそうだったので途中でやめた。

(はぁ、どうしてこうなっちゃったんだろう……)

 大学時代から付き合っていた彼とは、もうすぐ4年の付き合いになる。大学を卒業してお互い就職したが、慣れない社会人生活に四苦八苦しながら日々を過ごすうちに会う頻度が減っていた。それでも、ここ1年は何とか時間を捻出してデートや電話をしていた。ところが、私が新店舗に移った辺りからデートや電話が減り、気づけばメールすら碌に返ってこなくなっている。

 今の現状が良くないのは頭ではわかっているが、自分がどうしたいのかがわからない。そんなウジウジとした自分に嫌気が差す。

(やんなっちゃうな、ほんと)

 考えれば考えるほど気分が暗くなっていく。これではいけない、と思い背中を伸ばすと、視界の隅にバッティングセンターが映った。中からはカキーンと気持ちの良い音が聞こえる。

(……たまには気分転換もいいよね)

 私はどんよりとした気持ちを振り払うように、足速にバッティングセンターへと歩いて行った。

 バッティングセンターの中に入って初心者向けの打席を選ぶ。とりわけ上手いわけではないが、今はとにかく頭を空っぽにさせて体を動かしたい。
 飛んでくる球を目がけてバットを思いっきり振っていると、少しして運よく球がバットに当たり、綺麗な弧を描いて反対側へと飛んでいった。

「やった!」
「ほぉーなかなかやるやないか」

 聞き覚えのある声がして後ろを振り向くと、タバコを吸いながらこちらを見ている真島さんがいた。

「げっ」
「げって何やねん。失礼やなー」
「あ、いや、まさか真島さんにここで会うとは……」
「それはこっちの台詞や。紗英ちゃんこないなとこ来るんやな」
「まぁ、今日はたまたま……」

 話しているうちに球が切れてしまった。なんだか続ける気分でもなくなってしまったので、打席から出て真島さんの横に座る。

「もうええんか」
「はい」
「今日はもう仕事はないんか」
「はい。さっきあがりました」

 真島さんは煙をふぅーと吹き出すと、短くなったタバコを灰皿に押し付ける。それと同時に立ち上がると、私のほうを見ながら嬉しそうに口を開いた。

「ほんなら付き合ってくれや」
「え?」

 それだけを言うと、彼は建物の反対側にある打席に入っていく。そこは上級者向けの打席で、利用している人はあまり見かけない。

「真島さんこんな難しいのできるんですか?」
「俺にかかればこんなん朝飯前や」

 宣言通り、かなりのスピードで飛んでくる球を次々と打つ真島さん。その度に気持ちの良い打球音がバッティングセンターに鳴り響く。
 一球も見逃すことなく綺麗に打ち続けた彼は、最後の球を打ち終えると満足そうな顔で私の横に戻ってきた。

「今日も絶好調やで〜」
「すごかったです、真島さん!」
「お、俺に惚れたか?」
「惚れてません」
「相変わらず冷たいのぉ」

 さっきまでちょっとかっこよかったのに、話し始めるといつもの調子に戻ってしまう。
 でも余計なことを考えなくて済む分、その態度が今はありがたい。

「紗英ちゃんはこの後予定あるんか?」
「いえ、特には」
「それやったら飯行こうや」
「だからそれデートですよね……」
「はーアカンか。ガードの固さはピカイチやな」

 うーんと手を顎に当てて何か考えている真島さん。しばらくそれを見ていると、ニヤリと笑って彼が口を開く。何か嫌な予感がする。

「あ〜駅前のカフェにあるケーキが今ごっつい食べたい気分なんやけどな〜」
「は?」
「せやけどそのケーキ、カップルだけが注文できる限定品やねんな〜」
「……」
「しかもその限定品のケーキ、来週でサービス終わってまうんよな〜」
「真島さん……」
「俺彼女おらんしな〜。誰か一緒に行ってくれる人おらんかな〜?」

 棒読みで話しながらチラチラとこちらを見てくる。

「別にデートやなくて、相席してくれるだけでええんやけどなぁ〜?」

 言い終わると同時にじっと私の目を見つめてくる。表情は無邪気なのにその瞳は真剣で、意固地になっている自分の心がぐらりと揺れてしまう。
 仮にここで断っても、一人になった途端に恋人のことを考えて落ち込むのが目に見えている。せっかく楽しくなりかけた時間をここで終わらせたくはない。

「……わかりました、真島さん。行きましょう」
「ホンマか!?」

 子供のように目を輝かせて嬉しそうにする真島さんは、彼の風貌とは不釣り合いでとても可愛らしい。

「その代わりデートじゃないですよ、相席です相席!」
「何でもええわ、早よ行こうや」

 彼は待ちきれないといった様子で私の手を引いて歩き出す。そんな彼を見てつい口元を緩ませると、彼はピタリと足を止めて驚いたような顔で私を見た。

「……それは反則やないか」
「反則?」
「何でもあらへん。行くで」

 彼はふいっとそっぽを向くように前を見ると、先ほどよりも少し早い足取りで歩き始める。私は置いていかれないように早足で彼についていった。

 カフェに着くと、多少混んではいるものの待たされることなく席へと着くことができた。店内はたくさんのカップルで賑わっており、甘いケーキと紅茶の香りが室内に広がっている。

「こんなところにカフェがあるなんて知りませんでした」
「ちょっと入り組んどるからな。ここは紅茶がうまいらしいで」
「へぇ〜」

 そう話しながらメニューを見ると、真島さんが言っていたカップル限定のケーキセットが書かれていた。旬のフルーツをふんだんに使ったケーキのようで、スポンジ部分には洋酒が使われており、大人向けの味付けになっているようだ。さっきまでお腹は空いていなかったはずなのに、ケーキの写真を見て無性に甘い物を欲し出す。

「美味しそう……」
「せやろ? 紗英ちゃん気に入ると思うとったんや」

 悔しいがまんまと彼の策略にハマっている。毎朝コーヒーを買いに来る時しか話さないのに、自分のことを見透かされているようで少し落ち着かない。

「で、どれにするんや?」
「このケーキセットにします」
「ほな俺も同じのにしよかな」

 程なくして店員が注文を聞きに来た。彼が注文しているのをぼーっと聞きながら、以前新製品のクッキーをおすすめしたら「俺甘いのは苦手やねん」と言われたのを思い出していた。今日は私に合わせてくれているのだろうか?

 さっきも子供のようにはしゃいで嬉しそうにしていたな、と思い返す。今まで知らなかった彼の新しい一面をたくさん見られて、少しずつ真島さんに興味が湧いてきている自分がいる。
 他には何を言っていただろうか、と過去に話した彼との会話を思い出そうと記憶を辿っていると、自分の名前を呼ばれて意識を現実へと引き戻した。

「そないジッと見られると照れてまうわ」
「えっ!?」

 気づけば店員はとっくにいなくなっていた。一体どのくらいの間見つめていたのだろうか、と無意識の行動に恥ずかしくなりテーブルに置いてある水を飲む。そんな私をニヤニヤと見つめながら、真島さんは楽しそうに話す。

「ジッと見つめるくらいには俺に興味持ってくれたんか?」
「いや、そういうんじゃないです」

 努めて冷静を装って返事をする。

「ほぉ、まぁそういうことにしといたるわ」
「勝手にしてください……」

 その後も他愛もない会話を続け注文を待っていると、先ほどの店員が手にケーキセットを持ってこちらに向かってくるのが見えた。自分達の注文だろうと思ってコップをテーブルの隅に寄せると、店員はそのケーキセットを置くことなく横を通り過ぎて行く。

(あれ、他の人の注文だったのかな)

 何となしに店員を目で追うと、3つほど離れた先のテーブルの前で足を止めた。どうやら手に持っていたケーキセットはそのテーブルの注文だったらしい。そのテーブルには、同い年くらいの若いカップルが座っていた。彼らはケーキセットを見ながら仲睦まじそうに話している。

「ん……?」

 見覚えのある顔のような気がしてジッと見つめていると、それもそのはず。カップルの男性は、先ほどまで私を悶々と悩ませていた張本人だった。途端に自分の顔が強張るのを感じる。
 私の異変に気づいたのか、真島さんが少し心配そうに聞いてきた。

「紗英ちゃん、どないしてん?」
「あの……彼氏が……」
「おるんか?」
「はい、あそこに……」

 目立たないように彼らの座っているテーブルを指差すと、真島さんもさりげなくその方向を向いた。

「あいつ女とおるやないか」
「ですね」
「浮気しとるんとちゃうか」

 真島さんに言われて頭が真っ白になる。その可能性は十分にあったし、今まで考えなかった訳ではない。でも実際にこの目で恋人が他の女といるのを見て誰かにそう口にされると、途端に現実味が帯びてくる。頭では何となくわかっていても、気持ちの部分がまだそれを受け入れられない。

「そう……かもしれないですね」

 返事はしたものの思考が追いつかず、とりあえず俯いて自分の手元を見る。真島さんは私が何か言い出すのを待っていたようだが、私に口を開く気配が一向にないので彼が沈黙を破った。

「紗英ちゃんはどないしたいんや?」
「えっ?」

 今まで避けていた質問を真っ直ぐ投げかけられて言葉に詰まる。自分はどうしたいのだろう。
 そもそも、まだ恋人のことが好きなのだろうか。あんなところを見てしまって、それでも関係を修復したいと思えるのだろうか。

「私、は……」

 言いかけたところで、タイミング悪く注文していたケーキセットが来てしまった。テーブルに並べられる美味しそうなケーキと紅茶を見つめながら、せっかく出しかけた勇気が引っ込んでしまう。

「お、美味しそうですね」
「……せやな」
「まずは食べませんか? 紅茶も冷めちゃいますし」

 無理やり笑顔を作って目の前のケーキに手をつける。綺麗に並べられたフルーツも、洋酒が効いているというフワフワとしたスポンジも、今は何も味がしない。せっかく楽しい1日になりそうだと思った矢先にこれだ。
 しばらく無言のまま、ただひたすらケーキを口に入れる。カチャっと食器が当たる音以外は何も聞こえない。

 気まずい雰囲気になってしまったことを申し訳なく思いながら真島さんをチラリと見ると、ケーキを静かに食べている。とりあえずこの空気を何とかしたくて、さっき考えていたことを聞いてみた。

「真島さん、何でケーキ注文したんですか?」
「ん?」
「前に言ってましたよね。甘いもの苦手だって」
「なんや、覚えとったんか」
「さっき思い出して」
「そうか。なんや紗英ちゃんが嬉しそうに選んどったから俺も気になってな。それに同じもん一緒に食べた方が楽しいやろ?」

 ニッと笑う彼を見て胸がどきんと音を立てる。その瞳に嘘はなくて、ただ純粋に私との時間を楽しもうとしてくれていることがわかった。

 そして思い出す。私はこういう小さな気遣いが欲しかったのだと。

 別に謝罪の言葉や愛の言葉が欲しかったわけじゃない。ただ単純に、私のことを考えてくれて、私の為に何かをしてくれることを求めていたのだ。だから連絡が少なくなっても、私のことを考えて連絡してくれているのならそれで良かった。
 でもそれももう無理だろう、と3つ先のテーブルに座っている恋人を見て確信する。彼の心は私を見ていない。いや、とっくの昔に彼の気持ちは離れていたのだ。

 目の前に座っている真島さんはこんなにも真っ直ぐに私のことを見てくれているのに、今まで私は何をしていたんだろう。はっきりとさせることが怖くて自分からも彼からも逃げていた。それでも変わらずアプローチをしてくれている彼に胸がきゅっと痛む。

(私も彼の気持ちにまっすぐ答えたい)

 意を決して握っていたフォークを皿の上に置く。

「真島さん、私……彼氏と別れます」

 それだけを告げると私はスッと立ち上がった。真島さんが何か言いかけた気がするが、それを無視して恋人が座っているテーブルへと向かう。一歩、また一歩と足を踏み出す度に動悸が早くなる。心の奥底に湧き出る不安を消し去るようにグッと手を握りしめながら、彼のテーブルの前に立った。

 いきなりテーブルの前で立ち止まった私に、彼と一緒にいた女が怪訝な顔をする。それに気づいて彼が顔を上げると、私を見てギョッとしながら呟いた。

「紗英……」

 突然の出来事に目を見開いて固まる彼氏。久しぶりに会った彼はなんとも情けない顔をしていて、こんな人のどこが良かったのだろうか、とますます気持ちが冷めていく。

「翔太、久しぶりだね」
「う、うん……そうだね」

 真顔の私と明らかに挙動不審な彼を見て、不穏な空気を感じ取った女が口を開く。

「翔くん、この人誰?」
「えっ、あ、いや、誰だろうねぇ……はは」
「誰って、この人の名前呼んでたじゃん。知り合い?」
「えっ、えーっと、大学の友達、かな……?」
「なんで疑問系?」

 額にダラダラと汗をかきながら目を泳がせる彼に、次第に女もイライラしてきているようだ。煮え切らない態度を取っている彼に、私ははっきりと告げる。

「翔太、私達別れよう」

 私の口から出てきた言葉に女がピクリと反応した。先ほどまでの甘ったるい声は影を潜め、攻撃的な声で畳み掛けるように話し出す。

「は? 別れる? 翔くん、どういうこと? 友達じゃなかったの? 二股かけてたってこと?」
「ち、違うんだよ、綾ちゃん。ホントにただの友達なんだよ」

 翔太は目の前に座っている女に必死に弁解をしながら、すっとぼけた声で私に話しかける。

「あれー俺たち付き合ってました? 勘違いさせちゃった?」
「翔太、誤魔化すのはいいから。返事聞かせてくれる?」
「いやー困っちゃうな。どこでそんな勘違いしちゃったのかなぁ……」

 何が何でもシラを切り通そうとする翔太に、私もどんどん怒りがこみ上げてくる。思わず声を荒げてしまいそうになった時、肩にトンと手が置かれた。

「兄ちゃん、往生際が悪いんやないか」

 驚いて声をしたほうを見ると、テーブルにいたはずの真島さんが私の横に立っていた。
 明らかに普通の人には見えない真島さんの風貌に、彼氏も女も固まっている。

「女が勇気出して別れ切り出しとるんや。男なら誤魔化さんとはっきり答えんかい」

 いつもとは違う真島さんの鋭い目線にゾクリと背筋が凍る。それを真っ直ぐに向けられた翔太は、青ざめた顔をしながらパクパクと口を動かしている。多分声に出そうとしているが恐怖で声が出ないのだろう。

「で、どないするんや。紗英ちゃんと別れるんか」
「ぁ…ぇ……ゎ、ゎかれま、す……」
「あ? 聞こえんで」
「わっ、別れます!」
「さよか」

 翔太の返事を聞いて満足した真島さんは、私に顔を向けると嬉しそうに話しかける。

「っちゅーわけや紗英ちゃん。もうこいつに用はないやろ。行こか」
「え、ちょっと……!」

 そういうと肩を掴まれたまま、半ば無理やりカフェを後にする。後ろでは女が元彼を問い詰めている声がするが、私の意識は隣からする真島さんの香水の香りでいっぱいだった。

 店を出てしばらく無言で歩いていたが、人混みが少なくなった辺りで肩から真島さんの手が離れる。

「スマンな、余計なことしてもうたか」

 顔を見上げると、申し訳なさそうな顔をしている真島さんがこちらを見ていた。

「いえ、むしろ助かりました。あのままだったら声を荒げてたと思うから……」
「なら良かったわ」

 優しく笑いかけてくれる彼にどきんと胸がときめく。

「私のほうこそ、途中で抜けちゃってごめんなさい。まだケーキ残ってたのに……」

 そう言いかけて、お金を払わずに出てしまったことを思い出した。

「あっお金払ってない!」
「それなら俺が払っといたで」
「え、いつ?」
「あの男に話しかける前や」
「そうだったんですね……ごめんなさい、払ってもらっちゃって」
「気にせんでええ。元々俺が払うつもりやったしな」

 何から何まで迷惑かけっぱなしだな、と思って俯いていると頭の上から声がする。

「にしても紗英ちゃん思い切ったな」
「え?」
「さっきのや。まさかあそこで別れ話するとは思わんかったわ」
「あぁ……」

 そう言われて大胆なことをしたもんだ、と今更恥ずかしくなった。でも後悔はしていないし、あの瞬間に動いて良かったと思っている。

「なんだか体が勝手に動いちゃって」
「ええんやないか? カッコよかったで」

 ニッと満足そうな笑顔を向けてくれる真島さん。それを見て、今まで心の中にあった靄が晴れていくのを感じた。あと一歩が踏み出せなくてウジウジとしていた自分はもういない。
 私は目の前の彼を真っ直ぐ見つめて素直な気持ちを話す。

「真島さんのおかげです」
「俺は何もしてへんで」
「ううん。真島さんが真島さんでいてくれたから、私も自分の気持ちに気づけたんです」
「……それやったら良かったわ」
「ありがとうございます、真島さん」

 感謝の気持ちを込めて、とびきりの笑顔で彼にお礼を言う。
 それを見た真島さんは左手を口元に当てた後、不自然に顔を背けた。

「ちょっと、なんでそっぽ向くんですか?」
「別にええやろ、そっぽ向いたって」

 気になって彼の表情を窺おうとするが、身長差があって私の角度からはよく見えない。でも、隠しきれていない彼の耳が少し赤くなっているのに気づいて、思わず笑みが溢れる。

 真島さんが「ん゛ん゛っ」と軽く咳払いをすると、姿勢を正してこちらを見つめる。

「で、もうええんやろ」
「何がですか?」
「もう付き合っとる奴もおらんしデート解禁やろ?」
「まぁそうですね」
「ほんなら俺とデートしようや」

 何十回と聞いてきた台詞。いつもと違ったのは真島さんの顔が自信に満ちていたことだ。多分私が断らないのをわかって聞いているんだろう。
 私も、もうその台詞に呆れることはない。彼の隻眼をまっすぐ見据えて返事をした。

「いいですよ。私もずっと真島さんとデートしたかったんです」
「お、なんやそれ。告白かいな」
「違いますよ。思ってたことを言っただけです」
「素直やないのぉ。ま、俺がそのうち素直にさせたるわ」
「できるものならやってみてください」
「ほぉー言うたな。覚悟しときや、俺はなかなかしつこいで?」
「知ってます。何回デートに誘われたと思ってるんですか」
「それもそうやな」

 二人で今まであったことを思い出すようにクスクスと笑い合う。

「ほんなら行こか」

 優しく細められた瞳をこちらに向けながら、彼が右手を差し出してくる。
 私はこれから起こるであろう楽しい出来事に胸を高鳴らせながら、彼の右手を握りしめた。

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