ゴロちゃんの手も借りたい

「姐さん、どうしましょう……これ終わりませんよ」

 眉を八の字にした西田さんが半泣きで私に話しかける。

「うーん……どうしよう……」

 私達の目の前には、天井にも届きそうな高さの書類の山。それを二人で呆然と見つめながら途方に暮れていた。

 事の発端は2週間前。

 久しぶりに桐生さんが帰ってきたと聞きつけた吾朗さんは、桐生さんとの喧嘩目当てに仕事をほっぽり出して街に出て行ってしまったのだ。見つけ次第誰かが連れ戻してはいたのだが、普段から色々と本部の面倒ごとを押し付けられていた吾朗さんは相当にストレスが溜まっていたのか、隙を見つけては逃げ出して桐生さんに喧嘩を仕掛けていた。

 それが続くと少しずつ仕事も溜まっていき、気づけば吾朗さんがチェックしなければならない書類が山のように積まれていったと言うわけだ。

 それだけならまだなんとかなったのだが、タイミングの悪いことに、とある先方から期限を1週間早めてほしいとの連絡が来てしまったのだ。かなり大きな案件だったのでやる事も多く、その分も含めてさらに書類の山が増えてしまった。

「帰ったでぇ〜」

 陽気な声が聞こえて目線を事務所の入り口に移すと、上機嫌な吾朗さんがこちらに歩いてくるのが見えた。

「吾朗さん! どこ行ってたんですか!」
「どこって桐生ちゃんと喧嘩しとったんや。やっぱり桐生ちゃんはゴッツイでぇ〜」
「そんなことより親父、大変なんですよ!」
「あぁ、どないしたんや?」

 西田さんが事情を説明すると、真島さんがそれを聞きながら机の上に溜まっている書類に目を向ける。はち切れんばかりの笑顔はみるみるうちに影をひそめ、西田さんが説明を終える頃には、般若のように眉間に皺を寄せた吾朗さんがワナワナと震えていた。

「お前なんでこない溜まるまで何も言わんねん!」
「何度も親父に言いましたよ! でも体がウズウズするって言って逃げ出したのは親父じゃないっすか」
「何やと西田、俺のせい言うんかいな!」

 吾朗さんは今にも西田さんに殴りかかりそうな勢いだが、今はそんなことをしている時間も惜しい。

「ストップストーーップ!! 今は喧嘩してる場合じゃないです!」

 2人の間に入って大声を出すと、吾朗さんが振りあげた拳を止める。不満そうだが腕を降ろした彼は、幾分か冷静さを取り戻して私の話に耳を傾けてくれた。

「とにかく、今はこの書類の山を何とかしましょう。期限まであと3日しかありません」
「3日て……この量は流石に無理やろ」
「それで私考えたんです」
「「ん?」」

 吾朗さんと西田さんが同時に私を見る。一か八かの作戦だが、今は猫の手でも借りたい状況なのでやれるだけのことをやるしかない。

「吾朗さん、分身できますよね?」

 いきなり出てきた脈絡のない質問に、困惑した様子の吾朗さんが答える。

「そらできるけど……というか紗英知っとったんかいな」
「以前冴島さんに聞きました」

 というか吾朗さん、分身できて当たり前みたいな返答しましたけど普通はできないですからね。

「その分身に仕事を手伝ってもらうってことはできないでしょうか?」
「んー……まぁできんことはないと思うが、やったことないからわからんのぅ」
「もしうまくいけばいいアイディアですよ姐さん!」

 かすかな希望が見えてきた西田さんが嬉しそうに話す。
 もしこれがうまくいけば、かなり早いペースで仕事を終えられるはずだ。

「ちなみに、分身は出そうと思えばいつでも出せるんですか?」
「出せるけど、そう長くは保たんで」
「どのくらい保つんですか?」
「大体5分くらいか?」
「5分……短いですね。連続して出せますか?」
「いや、そない何度も出せるわけやない。最低でも間に1時間の休憩は必要やな」

 1時間おきに吾朗さんを分身させても5分間しか手伝ってもらうことができないとなると、あまり良い結果は期待できないかもしれない。
 良いアイディアだと思ったんだけどな、と肩を落とすと、隣にいた西田さんがなにかを閃いたようで口を開いた。

「親父、確か分身する時って4、5人いましたよね?」
「大体そうやな」
「それを1人にして長く保たせるようにする、ってことは可能ですかね?」
「どうやろなぁ。やってみんことには何とも」
「じゃあ試しに今やってみます?」
「せやな。やってみるか」

 そういうと吾朗さんは目を閉じて静かになる。少しすると彼の上半身から紫色のオーラが出てきて、フンっと少し力むと同じく紫色のオーラに全身を包まれた分身が現れた。

「えぇー……本当に分身だ……」

 話には聞いていたものの、実際にこの目で見るとちょっと引いてしまう。一体どういう仕組みになっているのだろう。

「なに引いとんねん。紗英が分身出せ言うたんやろ」
「そ、それはそうですけど……」

 恐る恐る分身の吾朗さんに近寄ってみる。全体的に影のように黒く、全身からは紫色のオーラが出ているが、それ以外は本物の吾朗さんと瓜二つだ。試しに触ってみたが、実体もあるようで透けたりはしていない。

「わぁーすごい! 本当に吾朗さんの分身だ」
「ま、俺にかかればこんなもんや」

 クオリティの高さに感動しながら分身の吾朗さんを見ていると、その黒い影が口を開く。

『なんや、今日は戦わんのかいな』
「「「!!!」」」

 その場にいた全員が声のしたほうを見つめる。確かに今の声は分身の吾朗さんから聞こえた。

「分身って話せるんですか?」
「いや、俺も今まで知らんかった。話そうとしたことなかったしな」
『あ? 話せるに決まっとるわ』
「声も親父そっくりだ……」
『そっくりって、俺なんやから同じ声に決まっとるやろ』
「ほぉー。俺の声ってこんな感じなんか? なんや不思議な気分やな」

 自分が認識している自分の声と、他人が聞こえている自分の声は違うと聞くが、それを今吾朗さんは実感しているのかもしれない。

『で、今日は戦わんのやったら何で呼び出したんや』
「おう、それなんやけどな」

 吾朗さんが、分身の吾朗さんに状況を説明する。全身を纏った紫色のオーラではっきりとはわからないが、嫌そうな顔をしている。

『なんで俺がお前の尻拭いしないかんねん』
「お前は俺なんやから、自分の尻拭いするんは当たり前やろ」
『んなもんお前一人でやれや』
「できへんから分身してお前を呼んだんやないか」
『はーやってられへんわ……』
「なんやねんこいつ。態度悪いわ」

 吾朗さん、その態度いつも私と西田さんが受けてるんですよ、と言いたくなったがグッと堪える。
 ここは私の切り札を使うしかない。彼女というアドバンテージを利用して、なるべく可愛く分身の吾朗さんに話しかける。

「分身の吾朗さん、今はどうしてもあなたの力が必要なんです。助けてくれませんか?」

 あざとく上目遣いで分身の吾朗さんを見つめると、彼が「ぐっ……」と小さく呟いた後、目元がぐらりと揺らいでいるのが見えた。

『まぁ紗英がそう言うんなら仕方ないわ。手伝ったる』
「ありがとうございます! 分身の吾朗さん!」

 感謝の気持ちを込めて分身の吾朗さんの手を掴むと、彼は照れくさそうにもう一方の手で頭を掻く。

「さすが姐さん、親父の扱い方をよくわかってますね!」
「なんや自分なのに俺の女と話してんの見るとイラッとするな……」

 とりあえず何とかなったようで一安心する。今のところまだ分身は消えていないし、この作戦なら長時間分身の吾朗さんに助けてもらうことができるかもしれない。

「あ、そういえば吾朗さん」
「あ?」
『なんや』

 声を掛けると二人の吾朗さんが私のほうを向く。

「えーと……名前分けないとややこしいですね」
「確かにそうやな」
「んーじゃあ本物はいつも通り吾朗さんで、分身はゴロちゃんなんてどうでしょう?」
「ゴロちゃん? なんで分身のほうが距離縮まってんねん」
『俺は別にそれでええで』
「吾朗さん、3日間だけですから……ね?」
「……ふん、しゃーないの」

 これが3日も続くのか、と思うと今から気が重くなるが、これしか方法が思い付かないのだから仕方ない。
 とりあえずゴロちゃんの様子を見つつ、机の上に積まれている書類に手をつけることにした。

 吾朗さんとゴロちゃんが黙々と書類に目を通し、私と西田さんがそれをサポートする。元々吾朗さんは仕事ができる人なので、気合を入れれば凄まじいスピードで仕事をこなすことができる。その気合いがなかなか入らないのが問題なのだが。

「ん」
「どうしました、吾朗さん?」

 なにかに気づいたように顔を上げた吾朗さんに質問すると、それと同時に私の隣にいたゴロちゃんが煙のようにフワッと消えた。彼が手に持っていた書類がひらひらと地面に落ちる。

「ゴローの親父、消えちゃいましたね」

 西田さんも区別が付きやすいように、ゴロちゃんのことをゴローの親父と呼んでいる。

「せやな。西田、どのくらい経った?」
「えーと……大体40分くらいですかね」
「結構長かったですね。これなら間に合うんじゃないんですか?」
「でもこれ続けとったら体が保たんわ。1時間おきは厳しいかもしれん」

 見た感じは変わっていないが、それなりに体力は使っているらしい。吾朗さんが倒れたら元も子もないので、あまり無理をせず様子を見ながら分身をすることにした。

 2時間ほど経ったところでもう一回分身をしてみる。先ほどと同じように、紫色のオーラを出した吾朗さんから分身のゴロちゃんが現れた。

「えーと、ゴロちゃん、ですよね?」
『おう、せやで』

 先ほどの記憶は残っているらしい。時間もないのですぐ仕事に取りかかる。

 ゴロちゃんのサポートをしていて気づいたのは、彼が普段の吾朗さんよりも口数が少なく真面目なことだ。それとは相対的に、吾朗さんの愚痴が増えて先ほどよりも集中力が切れているように見える。
 分身とは言っても自分の一部を分けているわけだから、分身中は性格も若干変わっているのかもしれない。

 普段見られない真面目な彼に、分身ながらも少しドキッとしていると、その目線に気づいたのかゴロちゃんが私に話しかけてくる。

『なんや、そないじっと見つめて』
「えっいや……なんか真面目に仕事してる姿が新鮮だなと思って」
「俺がいつも真面目やないみたいな言い方やないか」
「ちっ、違いますよ。いつもは他のこともしてるんで、こうやって仕事してる吾朗さんをジッと見ることないなって」
『ほぉー。俺に見惚れとったんか?』
「そうじゃなくてっ!」
「あ? お前なんで他の男によそ見しとんねん」
「いや他の男って……どっちも吾朗さんじゃないですか」
「俺はここにおるやろ」
『ヒヒッ、残念やったの。紗英は今俺に夢中みたいやわ』
「なんやと、分身のくせに生意気言いおって」
「あーもうやめてください! 余計なこと言った私が悪かったですから!」

 はぁーと大きくため息をついて2人を止めると、西田さんが同情の目を私に向けてきた。

「姐さんも大変ですね……」
「本当に早く終わってほしい……」

 丸2日を過ぎた頃になると、ソファ前のコーヒーテーブルには買ってきてもらった栄養ドリンクが山のように転がっていた。私も西田さんも吾朗さんも、ずっと事務所に缶詰状態でほとんど寝ずに仕事をしている。分身をしている吾朗さんは特に辛そうで、目の下にクマを作りながらなんとか書類に目を通し続けている。

「吾朗さん、大丈夫ですか?」
「おう」

 とは言ったものの、さっきからペースも落ちているし顔色もあまり良くない。

「吾朗さん、ちょっと仮眠しませんか? 数時間くらいなら大丈夫だと思いますから」
「そうですよ、親父。こっちは気にせず休んでください」
「そうか……ほなそうさせてもらうわ」

 吾朗さんがゆっくりと立ち上がり、フラフラと事務所の仮眠室に入っていく。

「大丈夫ですかね、親父」
「だいぶ無理させてますもんね……少しでも休めるといいんですけど」
「姐さんも休んできたらどうですか? 親父もそのほうがよく寝れると思いますし」
「えっでも……」
「ある程度目処も立ってきたし、大丈夫だと思いますよ」
「……じゃあお言葉に甘えて。私たちが起きたら西田さんも休んでくださいね」

 正直自分も限界なので、西田さんの提案はとても助かった。吾朗さんの後を追うように私も仮眠室に入る。

 なるべく音を立てないようにドアを開けると、仮眠室のベッドにはすでに横になっている吾朗さんがいた。仮眠室と言っても、ほぼ吾朗さん専用の個室なのでベッドは一つしかない。そこまで大きくはないが2人なら何とか寝られるサイズなので、すでに横になっている彼の横にそっと寝転がる。

「ん……紗英か」
「ごめんなさい、起こしましたか?」
「いや、大丈夫や。目閉じとっただけや」

 吾朗さんはとろんとした目をこちらに向けながら、腕を私のほうに伸ばす。素直に彼の腕の中に入って自分の頭を彼の腕に乗せると、ぎゅっと力強く抱き締められた。

「やっと俺んとこに来た」
「ずっと一緒にいたじゃないですか」
「でもアイツの手伝いしとったやないか」

 アイツとはゴロちゃんのことだろう。ゴロちゃんがいるときは私が彼を手伝っていたのだが、それが気に入らなかったのだろうか。

「西田さんと役割分担してたまたまそうなっただけです」
「その割には楽しそうに話しとったな」
「それは仕方ないじゃないですか。分身でも吾朗さんは吾朗さんなんですから、好きな人と話すのは楽しいですよ」
「それでもや」
「……妬いてるんですか?」

 上を向いて吾朗さんの表情を伺うが、私の位置からでは喉しか見えない。いや、彼が自分の表情を見せないように腕の力を緩めないのだろう。

「悪いか」
「ふふっ、吾朗さん可愛い」
「こないおっさんが可愛いわけあるか」
「そうでもないですよ?」
「……フン。勝手にせぇ」

 クスクスと笑うと吾朗さんの手が私の頬に触れる。彼の顔を見ると、真剣な眼差しをこちらに向けている。

「俺以外にそういう可愛い顔見せんといてや」
「吾朗さんの分身でも?」
「分身でも、や」
「吾朗さんの愛重いなぁ。さすが般若を背中に背負うだけありますね」
「なんや、嫌んなったか」
「ううん、もっと好きになりました」
「そら良かった」

 吾朗さんは安心したように笑うと、私の唇に軽くキスをした。優しくそっと触るだけの口づけは彼の愛とは正反対で、それがおかしくて口元が自然に緩んでしまう。

「一休みしたら西田との役割分担交代せぇや」
「ふふ、わかりました」

 私の返事を聞くと満足そうな顔で目を閉じる吾朗さん。それにつられて私も目を閉じると、思ったよりも早く眠りに落ちていった。

 結局山のように溜まっていた仕事は、期限日の数時間前に何とか終わらせることができた。最後の1日は私が吾朗さんの手伝いをしていたので、疲労の割にはご機嫌な彼が調子を取り戻して、早めのペースで進めることができたのだ。

「はぁーやっと終わったわ」
「お疲れ様です、親父」
「何とか間に合いましたね」
『じゃ、俺はもうええんか』
「はい、ゴロちゃんもありがとうございました」
「ゴローの親父もお疲れ様です」
『もうこんなことで俺を呼ぶなや』
「俺ももう懲り懲りやわ」

 じゃ、と言って消えようとしていたゴロちゃんが、なにかを思い出したように私に近づく。

「ん、どうしました?」
『面倒臭い奴やけどこれからもよろしゅうな』

 耳元で私だけに聞こえる声量で囁くゴロちゃん。そして私の頬に軽くキスをすると、ニヤッと笑って煙の如く消えてしまった。

「お前何しとんねん!」

 急いで椅子から立ち上がった吾朗さんも、ゴロちゃんが消える速さには敵わなかったらしい。ゴロちゃんがいた空間を不機嫌そうに見つめながら、振り上げた拳を下ろす。

「あいつ最後の最後にやりおったな。何言われたんや、紗英」

 何言われたんやなんて聞いてはいるものの、何が何でも答えを聞き出すつもりの瞳を見つめながら、少し意地悪をしてみたくなる。

「んー? 内緒です」
「あ? なんやて」
「ゴロちゃんと私の秘密なので吾朗さんには話せません」
「ほぉー……紗英も言うようになったな」

 ニヤリと笑いながら近づいてくる吾朗さんからは、般若と組長の顔が見え隠れしている。
 本当に、この人の愛は重い。

「今夜は覚悟しとけや」

 耳元でぼそりと呟かれた言葉に、ゾクっとすると同時に微かな高揚感を感じながら、私の愛もなかなか重いな、と今夜を待ち遠しく思うのだった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です