「帰ったで〜」
「おかえりなさーい」
玄関で靴を脱ぎながら声をかけると、部屋の奥にいたであろう紗英がパタパタと音を立てながら近づいてきた。
紗英とは付き合ってもう5年になる。自分がよく通うバーに彼女が顔を出すようになり、一言二言と声を掛け合ううちに、気づけばお互い好きになっていた。
よくある出会いと言えばそれまでだが、極道という世界にいる自分にとって、カタギの女を好きになるのにはそれなりの葛藤があった。
結婚して、子供を産んで、家族を大きくして、定年まで働いて老後は静かに暮らす、なんてのがよくある理想の人生なんだろう。でも、そんな理想のカケラもあげられないような自分が、誰かを好きになってよいのだろうか?
いつ他の組とドンパチして大怪我するかもわからない。もしかしたら明日死ぬかもしれない。なにより今まで自分のしてきたことを思い出して、こんな世界に彼女を引き摺り込んでしまっていいのだろうか、と考えてしまう。
以前好いていた女も、その葛藤の末、自分からアクションを起こすことなく身を引いた。その後、結果的に幸せになった彼女を見ることができて、その決断は間違っていなかったのだとホッと胸をなでおろしたものだ。
そういうことがあったからか、長いこと自分の中で恋愛に真剣に向き合うことはなかった。
でも紗英は違った。なにが、と言われるとうまく言葉にできない。自分が変わったのか、彼女が特別だったのか、時代が変わったのか。もしかしたら全てが複雑に交わり、その結果が今なのかもしれない。
以前あった葛藤がもうないかと言えば嘘になる。自分の好いた女と一緒にいたい、という気持ちと、自分は彼女を幸せにはできない、という理性がグラグラと振り子のように揺れ動く日々。
そんな日々の中でも紗英の笑顔を見ると、今この瞬間だけは全てを忘れて自分の気持ちに正直になってもいいのかもしれない、と思えるのだ。
「今日は幹部会だったの?」
「あぁ。相変わらずくだらん話ばっかしとったわ」
「ふふっ、それはご苦労様でした」
目を細めて笑う紗英と話しながら、脱いだジャケットを彼女に渡した。
それを当たり前のように受け取り、手慣れた手つきでハンガーにかける。こういう何気ない一連の流れも、自分の正直な気持ちを炙り出させる一因だ。心地よい安心感が、自分の中にある理性をじわじわと侵食していく。
そんな奇妙な感覚を心の隅に感じながら、ドカッとリビングのソファに腰を掛けた。
それと同時にキッチンのほうから紗英の声がする。
「コーヒーでいい? それとも何かお酒でも飲む?」
「んーそやなぁ……ビールあるか?」
「うん、あるよ。今持っていくね」
テーブルに置いたたばこを取り出し口に加えると、その先にライターの火を近づける。
じわっと燃え出すたばこの先をぼんやりと見つめながら、思った以上に疲れていた自分に気づく。そういえばここ最近は碌に寝られなかったな、と思い出していると、紗英がビールを手に持ちながら自分の隣に座った。
「はい、どうぞ」
「ん、おおきに」
目の前のテーブルに置かれたビールを手に取ると、グイッと一口飲み込んだ。
喉を通るシュワッとした爽快感に少し癒されながら横を見ると、紗英がテーブルに置いてあった本に手を伸ばしている。
「なんや、それ?」
「ずっと待ってた小説の新刊。前に言ってなかったっけ? たまたま見つけたサスペンス小説にハマったって話」
「あぁ、あれか。あの時はずいぶん熱心に読んどったな」
「そうそれ。今回もそうなりそう」
嬉しそうに笑いながら紗英は視線を本を落とした。
たばこを吸いながらじっと紗英を見つめると、もう意識は本の中に入っているのか真剣な表情で文字を追っていた。こうなると彼女はなかなか顔を上げない。
視線を自分の前に戻し、たばこを吸いながらぼぅっと宙を舞っている煙を見る。
チクタクと秒針を告げる音と、時折聞こえる彼女がページをめくる音以外はなにも聞こえない。
いつからだろうか。こんな静寂も心地よいと思えるようになったのは。
人と話すのは苦手ではないし、むしろ得意なほうだと思う。じゃあ人と話すのが好きかというと、自分から進んでやるほど好きというわけでもない。がむしゃらに生きていく中で、必然的に相手の気持ちを読んで上手く取り入ったり、悪い状況から切り抜けたりしなければならなかった。決して楽な人生ではなかったが、そういう処世術を身につけることができたのは良かったと思う。あらゆる場面で役に立ってきた。
だが、一回静寂の心地よさを知ってしまうと、自分がいかに今まで無理をしてきたのかが浮き彫りになる。
好きでもない奴に気を遣って自分の気持ちを押し殺す日々。
それが当たり前だと思っていたけれど、それは単に押し殺す日々に慣れてしまっただけなのだと気づかされた。
紗英といるときはそういう無理をすることもない。沈黙が続いても気まずく思うことはなく、心地よい静かな時間こそが本来あるべきものなのだと感じていた。
多分、生まれ持った自分の性格が彼女のそれと似ているからであろう。
もし自分が普通の、ごくありふれた家庭に生まれていたとしたら、嶋野の狂犬などと呼ばれバットを振り回すこともなく、真面目で静かな会社員にでもなっていたかもしれない。
そんなことを考えたところでどうしようもないのに。
ふつふつと湧き上がる考えと同時に、先ほど感じていた安心感がまたぶり返してくる。
さっきよりも深く、自分の理性を侵食していく。
そんな自分がおかしくて、フンと鼻で笑うと考えるよりも先に言葉が飛び出していた。
「いつの間に牙を抜かれてしもたんやろか……」
「ん、何か言った?」
「いや、ただの独り言や」
ぼそっと呟いた自分の独り言に、紗英が顔を上げる。「そう?」と優しく微笑む彼女を見て、心根がじわりと温かくなる。
これが愛というものなんだろうか。
少しずつ自覚していくその感情を愛おしみつつ、彼女の額にそっとキスをした。
「紗英、おおきにな」
彼女が与えてくれる愛が、自分の理性を飲み込むのはそう遠くないのかもしれない。

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